投稿

2月, 2023の投稿を表示しています

私は許してもヴェノムは許さないよ『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』

イメージ
  宇宙からやってきた悪の共生生物シンビオートの宿主となり、凶暴な生命体ヴェノムと共に生きるようになった記者エディ。 エディは凶悪殺人犯クレタスへの取材を重ね、事件の真相に迫る。 記者エディを悩ませるは自らの体に共生するヴェノム。 「人間が食べたい」と食人衝動を抑えきれず、食用で飼った鶏には「友達は食べない」といったわがままぶり。 おまけに不平不満の愚痴はエディの脳に直接ぶちまけるからたまらない。 物理的、精神的に暴れまわるヴェノムとエディはついにお別れを決める。 こうなると寂しいのはヴェノム。 様々な人間に共生するが長くはもたず、そのたびにエディを思い出す。 自分の有能さを語っても言葉の端々にエディへの思いがあふれ出す。 『試着室で思い出したら本気の恋だと思う』状態のヴェノム。 種や価値観の違いをお互いの思いで乗り越え、再び共生の道を選んだエディとヴェノムに、私も耳元で拍手が鳴りやまない気がする。

捨てられる人も捨てられない人も『ハッピー・オールド・イヤー』

イメージ
  「ミニマルな生活を目指す」と強い気持ちのもと、断捨離を始めた女性ジーン。 モノを片づけ始めるが次第に気持ちに変化が見え始める。 タイの映画。 同じモノでも人から見ればゴミ。 でも自分にとっては宝物。 その逆もあるだろう。 もらったものは持ち主に返し始めるジーン。 受け取り喜ぶ人、怒り出す人。 反応は様々。 モノには魂が込められていると思う。 なぜここにあるのか。 誰が持ってきたのか。 どうしてまだあるのか。 モノが勝手にあるわけではない。 誰かがここに持ってきたからある。 モノを捨てるということは過去を見つめ、清算し、未来に進むための儀式。 わかっちゃいるんだけど捨てるのはつらい。 モノを捨てることなど自分には無理だと映画を見ただけで分かった。 ジーンのような強い気持ちは自分にはない 「モノを捨てるのと人を捨てるのは違う」 ジーンをまじかで見ていた友人の言葉が迫ってくる。 『断捨離』 『ミニマムな生活』 今を時めくお洒落な言葉の本質をゆっくりと静かにドキュメンタリーのように描いた映画。

モンスターたちの共演『ハウス・オブ・グッチ』

イメージ
  世界的高級ブランドの創業者ファミリー、グッチ一族の崩壊。 そのきっかけとなったパトリツィアの物語。 冒頭にある『実話に着想を得た物語』とあるようにこの映画がすべてではないことを踏まえてみても、グッチ一族の崩壊はなるべくしてなったものでありパトリツィアはきっかけのひとつにすぎない。 ”家族であるからこそ”と”家族であるがゆえに”の間を振り子のように行き来する。 行き来するのはグッチたちの感情だ。 パトリツィアは行き来する感情の振動を加速させただけに過ぎない。 もっとも振り回されるのは次期後継者のマウリツィオ・グッチ。 演じるのはアダム・ドライバー。 奥手で内向的。 ゆえに豪快で肉欲的なパトリツィアに惹かれていく。 そのほかの登場人物たちも豪華だ。 特に、はみ出し者パオロ・グッチ。 演じるのは『スーサイド・スクワッド』でジョーカーを演じたジャレッド・レト。 自分の才能を信じて疑わないパオロ・グッチ。 終わってみれば彼がグッチの再生を握っていたんではないかと思える人物。 デザイナーの才能はなくても、純粋さこそが最大の才能。 2代目社長アルド・グッチを演じるのはアル・パチーノ。 佇んでいるだけで色気が香り立つアル・パチーノだが後半、落ちぶれていくにしたがって体臭がプラスされ渋さに磨きがかかる。 パトリツィアを演じるのはレディー・ガガ。 楽しそうなレディー・ガガを見ると幸せな気分になるが、それは狂気を含んでいるから。 終始そんな気がした。 因みに本作品はPG12指定だが、それはレディー・ガガとアダム・ドライバーの工事現場の重機のようなセックスシーンが理由だろう。 一族の崩壊はあったかもしれないが、この時の二人には確かに愛情があった。 それだけでいい。

度肝抜かれた『ヤッターマン』

イメージ
    ヤッターマンがいる限り、この世に悪は栄えない 1977年から1979年まで放送されたタツノコプロ制作のテレビアニメの実写化。 「ポチっとな」 「アラホラサッサー」 「ブタもおだてりゃ木に上る」 等々、 アニメで使われたセリフの使用やヤッターマンの勝利のポーズ、三悪メカ爆発時に立ち昇る通称ドクロ雲など原作を見て育った自分には懐かしさがこみ上げられてきた。 それ以上に映画にもかかわらず「今週のびっくりドッキリメカー」と叫ぶシーンでは、押し寄せるノスタルジー感に涙が出そうになった。 監督の三池崇史氏が「子供のころに見た『ヤッターマン』の感じを、限りなく再現したい」の言葉通りの再現度。 子供がそのまま大人になったような登場人物たちの果てしない悪ふざけに観ているこちらも心が踊る。 登場人物たちの再現度も素晴らしい。 ボヤッキー役の生瀬勝久はどこまでもボヤッキーだし、トンズラー役のケンドーコバヤシは1Km離れたところから見てもトンズラーだ。 問題はドロンジョ役の深田恭子。 彼女は原作を超えてしまっている。 止まっていても動いていても登場しただけで目が離せない。 ヒーローもので魅力的な悪役は重要だが、深田ドロンジョの存在は彼女こそが正しいとDNAに刻まれた抵抗することのできない命令のように本能に語り掛けてくる。 ドロンジョの衣装は総製作費5000万円だそうだが、衣装脱いでも尚、目が離せない 特徴的なマスクの奥から注がれる視線に画面越しでも時が止まる。 メデューサでドロンジョで深田恭子。 ドロンジョの衣装は国立博物館に展示されなければいけない。 映画史に残る存在。 この映画は年齢制限がないが、懐かしいといって安易に父親が子供に見せるには覚悟が必要だ。 子供の人生に重大な影響を与えるのは確実だから。 もちろんいい意味で。

『THE BATMAN』

イメージ
    俺こそが影だ 演じる俳優によってがらり印象を変え、観る映画によって異なるイメージを観客に与え続けるバットマン。 もはや歌舞伎や古典芸能の域にまで達してしまったこの演目に新たな要素を追加したのが本作でブルース・ウェイン/バットマンを演じたロバート・パティンソン。 ロバート・パティンソンのバットマンは冷たい冷気と湿度を身にまとったわがままエンジェル。 唯一の理解者であるはずの執事アルフレッドに悪態をつき、ただいま反抗期の真っ最中。 お金も力もあるから手に負えない。 表向きは犯罪者と戦い続ける謎のヒーローだが、この日がハロウィンだったこともあり、どう見てもコスプレ野郎。 しかもただのコスプレ野郎ではない。 復讐に燃えているのだ。 バットマンといえばメカも見どころの一つ。 特にバットモービルは、どのバットマンシリーズでも注目されるが、『THE BATMAN』ではフォード マスタングを近未来風にアレンジしたレトロフューチャー、かつエンジンむき出しのマッチョなデザインを採用。 バットマンはバットモービルのハンドルを握りゴッサムシティーをところ狭しと駆け巡る。 もうコスプレ野郎とは言わせない。 そんな狂気を感じる。 おそらくこのバットモービルを夜な夜な作ったのは執事アルフレッドなのだ。 自分のことを邪険に扱うブルース・ウェインのために寝る間も惜しんでバットモービルを作成する執事アルフレッド。 反抗期の子供を持つ私にとってアルフレッドこそがヒーロー。 バットマンは言う。 「俺こそが影だ」 強さと脆さ、はかなさと狂気をアルフレッド作のコスチュームで包み込んだ今は若きバットマン。 見守るしかない気分になった。