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私は許してもヴェノムは許さないよ『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』

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  宇宙からやってきた悪の共生生物シンビオートの宿主となり、凶暴な生命体ヴェノムと共に生きるようになった記者エディ。 エディは凶悪殺人犯クレタスへの取材を重ね、事件の真相に迫る。 記者エディを悩ませるは自らの体に共生するヴェノム。 「人間が食べたい」と食人衝動を抑えきれず、食用で飼った鶏には「友達は食べない」といったわがままぶり。 おまけに不平不満の愚痴はエディの脳に直接ぶちまけるからたまらない。 物理的、精神的に暴れまわるヴェノムとエディはついにお別れを決める。 こうなると寂しいのはヴェノム。 様々な人間に共生するが長くはもたず、そのたびにエディを思い出す。 自分の有能さを語っても言葉の端々にエディへの思いがあふれ出す。 『試着室で思い出したら本気の恋だと思う』状態のヴェノム。 種や価値観の違いをお互いの思いで乗り越え、再び共生の道を選んだエディとヴェノムに、私も耳元で拍手が鳴りやまない気がする。

捨てられる人も捨てられない人も『ハッピー・オールド・イヤー』

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  「ミニマルな生活を目指す」と強い気持ちのもと、断捨離を始めた女性ジーン。 モノを片づけ始めるが次第に気持ちに変化が見え始める。 タイの映画。 同じモノでも人から見ればゴミ。 でも自分にとっては宝物。 その逆もあるだろう。 もらったものは持ち主に返し始めるジーン。 受け取り喜ぶ人、怒り出す人。 反応は様々。 モノには魂が込められていると思う。 なぜここにあるのか。 誰が持ってきたのか。 どうしてまだあるのか。 モノが勝手にあるわけではない。 誰かがここに持ってきたからある。 モノを捨てるということは過去を見つめ、清算し、未来に進むための儀式。 わかっちゃいるんだけど捨てるのはつらい。 モノを捨てることなど自分には無理だと映画を見ただけで分かった。 ジーンのような強い気持ちは自分にはない 「モノを捨てるのと人を捨てるのは違う」 ジーンをまじかで見ていた友人の言葉が迫ってくる。 『断捨離』 『ミニマムな生活』 今を時めくお洒落な言葉の本質をゆっくりと静かにドキュメンタリーのように描いた映画。

モンスターたちの共演『ハウス・オブ・グッチ』

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  世界的高級ブランドの創業者ファミリー、グッチ一族の崩壊。 そのきっかけとなったパトリツィアの物語。 冒頭にある『実話に着想を得た物語』とあるようにこの映画がすべてではないことを踏まえてみても、グッチ一族の崩壊はなるべくしてなったものでありパトリツィアはきっかけのひとつにすぎない。 ”家族であるからこそ”と”家族であるがゆえに”の間を振り子のように行き来する。 行き来するのはグッチたちの感情だ。 パトリツィアは行き来する感情の振動を加速させただけに過ぎない。 もっとも振り回されるのは次期後継者のマウリツィオ・グッチ。 演じるのはアダム・ドライバー。 奥手で内向的。 ゆえに豪快で肉欲的なパトリツィアに惹かれていく。 そのほかの登場人物たちも豪華だ。 特に、はみ出し者パオロ・グッチ。 演じるのは『スーサイド・スクワッド』でジョーカーを演じたジャレッド・レト。 自分の才能を信じて疑わないパオロ・グッチ。 終わってみれば彼がグッチの再生を握っていたんではないかと思える人物。 デザイナーの才能はなくても、純粋さこそが最大の才能。 2代目社長アルド・グッチを演じるのはアル・パチーノ。 佇んでいるだけで色気が香り立つアル・パチーノだが後半、落ちぶれていくにしたがって体臭がプラスされ渋さに磨きがかかる。 パトリツィアを演じるのはレディー・ガガ。 楽しそうなレディー・ガガを見ると幸せな気分になるが、それは狂気を含んでいるから。 終始そんな気がした。 因みに本作品はPG12指定だが、それはレディー・ガガとアダム・ドライバーの工事現場の重機のようなセックスシーンが理由だろう。 一族の崩壊はあったかもしれないが、この時の二人には確かに愛情があった。 それだけでいい。